日本経済新聞(日経新聞)
荷物が増えた今は1.5~2トン車が中心ですが、以前はこんな集配車でした。ドライバーの生産性と安全性を追求したヤマト運輸の開発秘話です。
荷物が増えた今は1.5~2トン車が中心ですが、以前はこんな集配車でした。ドライバーの生産性と安全性を追求したヤマト運輸の開発秘話です。
相棒,日文是あいぼう[aibou]
就語文層面來說(這句話好像很文學@@"),
過去是指一起扛轎槓的轎夫,如果用在人與人之間的相處,自然就有「夥伴、搭檔」的意涵啦!!!
在日片《相棒Partners》,就是緊扣這夥伴的意涵!!
也就是說,整個故事主軸延伸發展在二各關係緊密的partners身上囉^^
企業遺産 300億個運んだヤマトの足、36年前の誕生秘話
- 2017/6/29 7:18
急増する荷物に人手不足。消費者の生活に欠かせない「宅急便」を生んだヤマト運輸が岐路に立っている。1976年のサービス初日に11個だった荷物。今や累計で300億個を超えた。その足を支えてきたのがユニークな形の集配車だ。映像と連動し、企業のルーツを体現するモノの歴史を描く「企業遺産」企画。第1回はヤマト運輸の「ウォークスルー車」。
「宅急便の父」が認めた理想の集配車
ヤマト運輸の成長を支えてきたユニークなかたちの集配車。「宅急便の父」小倉昌男氏の指示で始まった理想の車造りに向けた秘話を紹介する。
■宅急便の父、小倉氏のつぶやき原点
「君たちね。自分たちの使いやすいクルマをつくるべきだ。左ハンドルでもいいんじゃないか」
宅急便の父、故・小倉昌男氏がつぶやいたひと言が原点だった。
76年に宅急便が生まれる前、若手社員を集めた勉強会。集配や運行について議論するなかで、「良いトラック」とは何かを投げかけた。
その場にいた一人がヤマトホールディングス(HD)の瀬戸薫現相談役。3年後に福岡支店に営業課長として赴任した。「やってみよか」。瀬戸氏は車両整備と営業の係長、ドライバーのグループ長、入社1、2年目の社員の6人を集め、「YPS車開発プロジェクト」が福岡で発足した。
当時、集配車はミニバン。ドライバーは運転席を降り、荷物を取りに後ろに回り、跳ね上げ式のドアを開けていた。
「既製の集配車では、ただ人と車の増員、増車に頼らざるを得ないのではないだろうか」――。今も残る「新YPS車の手引き」という20ページの資料の冒頭の文言だ。荷物が急増する中で、現場の負担とストレスが増していた。今と同じ苦境に立っていたわけだ。
生産性と安全性を高めた集配車をつくり、配達スピードとサービスの向上につなげる目標を掲げた。議論を進めるなかで、「小倉さんが左ハンドルに目をつけた理由が分かった」(瀬戸氏)。駐停車した際に歩道側に降りれば危険が少ない。
しかし作業性、習熟度からドライバーの参加者は猛反発した。瀬戸氏らは3カ月ほど仕事から離れ、提案書を作りあげていった。右ハンドルでも左側から降りる方法はないか。運転席から荷室に移動できれば課題が片付くのではないか。議論に議論を重ね、ウォークスルー車の原案ができた。
■ベニヤ板で組み立てた試作車
小倉氏の耳に入り、東京本社から福岡に視察に来ることになった。「紙だけを見せるのは失礼だろう」とメンバーが集まり試作車をつくった。廃車から車台だけを残し、ベニヤ板で図面通りに1週間足らずで仕上げた。
ベニヤ車に乗った小倉氏は、荷物を持ったしぐさをして1時間以上も降りてこなかった。左側のスライドドアを開閉したり、荷物を守る仕切りを試したり。帰りの飛行機に遅れますよ、と声をかけられると「飛行機は次の便もあるけど、この車を見るのは今しかない」と夢中になったという。
「満足したんだと思う。あれから左ハンドルと言わなくなった」(瀬戸氏)
小倉氏は宅配便の規制緩和を巡って運輸省(現国土交通省)と対立し、「運輸省の役人は小学5年生以下」と切り捨てたこともある。利用者のためにならないことは許せないという信念。「その裏側に冷徹なほどの理論があったと思う」(ヤマトHDの山内雅喜社長)
その後、ベニヤ車は実車化され、81年9月に都内で運転を始めた。「運輸省の保安基準、試験にはトヨタさんが熱心に対応してくれた」(瀬戸氏)。当時「三河モンロー主義」といわれ、慎重に慎重を重ねる自動車最大手がなぜ素早く動いたのか。
■トヨタを動かした一通の手紙
その裏に一通の手紙があった。小倉氏がトヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)の豊田章一郎社長(現名誉会長)に直筆で送ったものだ。
お客様に良いサービスを提供するにはどうすればいいのか。そのためには使いやすい車両がどれほど重要なのか。熱い信念をしたためた。
ウォークスルー車はこうして産声をあげた。トヨタはその後、商用車の先駆的な役割を果たす「クイックデリバリー」として商品化している。
提案書で強調したのが一見してヤマトの車と分かる外観だ。ドライバーが立って動けるよう、背高になったユニークな形。「クロネコ」と並び、ヤマトの顔になった。
「お客様へのサービスを考えてこそ、ハードも生まれる」(瀬戸氏)。スキー、ゴルフ、クール宅急便……。ヤマトはその都度、サービスに欠かせない車両、設備、システムを開発してきた。
その精神は今も受け継がれる。今年4月から自動運転配送をめざす「ロボネコヤマト」の実証実験を藤沢市で始めた。実は、ウォークスルー車に続く次世代車の開発も進めている。
「サービスが先、利益が後」。19年に創業100周年を迎えるヤマト。宅配危機を乗り越えるのは、常に未来に種をまく小倉イズムかもしれない。
(森園泰寛、大須賀亮、藤井貴恵)